震災支援ネットワーク埼玉

震災支援ネットワーク埼玉

431279.com
しんさいつなぐ

レポート

「被災当事者の語りに耳を傾け学ぶことの意義」 シンポジウム『復興の人間科学2021』報告

2021年11月28日、早稲田大学 大隈講堂で実施されたシンポジウム、 “復興の人間科学 2021”『福島原発事故10年の経験から学ぶ』~当時小学生だった若者達との対話から~の報告論文です。

上の画像部分をクリックするとPDFファイルをご覧いただけます。ぜひご一読ください。


筆者は震災支援ネットワーク埼玉SSN(以下、SSN)の心理相談チームの一員として、2011年3月11日の東日本大震災以降、原子力発電所事故(以下、原発事故)による被害から逃れるために、住み慣れた土地からの避難を余儀なくされた福島の方々とのかかわりを続けてきた。

原発事故から10年が経ち、日本に住む多くの人たちの記憶が薄れ、風化していくなか、本シンポジウムにおいて、原発事故当時小学生だった若者たちとの対話が実現したことは、非常に意義のあることである。

この世代の方々の語りは、震災支援を継続してきた者たちにとって聴く機会のなかった、さらに言えば聴こうとしてこなかったものであり、さまざまな経験を抱えながら、彼らが深く考え、生き抜いてきたことを痛切に感じる機会となった。

当時小学生だった、そして現在大学生となった彼らから受け取ったものをしっかりと抱えながら、本稿では、我々SSNの活動を紹介するとともに、被災当事者である福島の方々の実際の語りとともに、その語りに耳を傾け学ぶことの意義について考えてゆきたい。

萩原裕子a,b、中川博之a,b、愛甲裕a,b、猪股正a,b、辻内琢也a,b,c
The Importance of Listening and Learning from the Narrative of Survivors
Yuko Hagiwara,Hiroyuki Nakagawa,Yutaka Aiko,Tadashi Inomata,Takuya Tsujiuchi
a.震災支援ネットワーク埼玉(SSN):Shinsai Shien Network Saitama
b.早稲田大学災害復興医療人類学研究所:Waseda Institute of Medical Anthropology on Disaster Reconstruction
c.早稲田大学人間科学学術院:Faculty of Human Sciences, Waseda University

2019年度 首都圏避難者状況調査分析結果に基づいて復興庁へ申し入れ/要望書を提出

 

震災支援ネットワーク埼玉(SSN)では、早稲田大学災害復興医療人類学研究所(WIMA)と共同で、首都圏避難者状況調査を2019 年 12 月~2020 年 3 月に首都圏(関東 1 都 6 県)の避難世帯を対象に実施し、この集計結果を基に、2020年6月19日に復興庁(東京都千代田区霞が関)に対して申し入れを行い、要望書の提出を行ってまいりました。

今回の申し入れにあたっては、内閣府大臣政務官兼復興大臣政務官の経験もおありの金子恵美 衆議院議員(福島1区:写真右)のお力添えにより、要望書を提出するだけではなく復興庁 統括官を始め参事官の皆様にご列席いただく中、直接要望を述べさせていただき、意見交換のお時間をいただくことができました。

引き続き、今後各省庁および福島県へ要望書の提出を行ってまいります。

2019年度 SSN/WIMA原発事故被害アンケート調査 第5報(改訂版)

実施期間:2019 年 12 月~2020 年 3 月 対象 :首都圏(関東 1 都 6 県)の避難世帯を対象に 5925件送付(現在回収継続中) 送付先 :双葉町 900 件,大熊町 940 件,浪江町 1670件、富岡町 1450 件,いわき市 400 件
川内村220件,福島市170件,郡山市175件

引き続く原発避難者の苦難を直視した継続的かつ実効的支援を求める要望書

(さらに…)

2016年度 避難者状況調査(第5回)報告書

私たち震災支援ネットワーク埼玉は、2011年3月、さいたまスーパーアリーナが一時避難所となり、東日本大震災および東京電力福島第一発電所の原発事故による避難者を受け入れた際に駆け付けたボランティアの中で、弁護士、司法書士、医師、看護師、臨床心理士、社会福祉士、ITスペシャリストなど、各方面の専門家により相談を担当したグループで、以来、被災者支援活動を継続して行っています。

2012年春に福島県から埼玉県へ避難中の世帯を対象として実施した「避難者状況調査」以来、毎年形を変えながら実施し、第5回目となった2016年度避難者状況調査は、以下の自治体にご協力をいただいて実施させていただきました。

  • 双葉町(関東1都6県):875世帯
  • 大熊町(関東1都6県):1,000世帯
  • 富岡町(関東1都6県):1,500世帯
  • いわき市(関東1都6県): 700世帯
  • 南相馬市(全国):6,200世帯

合計:10,275世帯

皆様には多数の設問でご負担をおかけいたしましたことをお詫びさせていただきますと共に、ご協力をいただきました方には心より御礼申し上げます。

集計結果につきましてまとめさせていただいたものをPDFファイルとして公開させていただきます。*クリックすると別ウィンドウ/タブで開きます。

2016年度 広域避難状況報告(A5版48ページ、PDFファイル:1,791KB)

第5回 避難者状況調査報告(2):強いられる「自己責任」~自ら望まない決断~

「福島県内に帰還」するか「福島県外に移住」するか、首都圏避難者にとって、大きな選択が迫られています。発災以来、生活費、仕事、住まい、損害賠償、家族、コミュニティなど、さまざまな要因によって大きな精神的苦痛を背負ってきた避難者に、さらなる「決断」が突きつけられています。

それは自ら望むことがない、「自己責任」という名のもとでの「決断」です。

6年にわたる避難生活の中で、国も誰もはっきりとした見通しを示すことができない状況の中で、全ての判断と選択の責任が個人に任されることになります。これまでも首都圏避難者は原発事故という未曾有の事故によって、さまざまな選択と決断を余儀なくしなければなりませんでした。それぞれの事情を抱えながらのギリギリでの選択です。

そのたびに、「本当にこれで良かったのか?」という疑問とともに、後になって悔やむことも数多くあったことでしょう。

そして福島県外へ、首都圏へ避難するという大きな決断をしました。しかしそれは、自分でしたくて行った決断ではありません。どちらを選んだとしても、自分の選択を悔やんでしまうことになる、原発事故によって強制された「自己責任」です。

不安で誰からも守られない状況となると、人は自分では決まられなくなるものです。

帰還できないなら早く次の生活ができるよう事を決めていただきたい。

         (帰還困難区域から東京に避難中の男性)

早く避難者、被災者を卒業したい。

   (南相馬市から東京へ避難中の女性)

「福島県内に帰還」するか「福島県外に移住」するか、ふるさとを失った方にとって、重要な決断が迫られています。

設問の中で、「帰還するために特に重視する条件は何ですか?」とお尋ねした所、次の3点が上位を占めています。

  • 1位:放射線量の低下
  • 2位:ライフラインの整備
  • 3位:医療/福祉サービスの再開

放射線量だけを考えた場合、戻っても良いと考えられる放射線量の水準は「震災発生前の線量(追加被ばく0mSv)」が最も多い回答でした。さらに、「地元の避難指示が解除された後の、世帯の方針について」お尋ねした質問では、「帰還する」という回答は全体の6%にしかすぎず、「移住する」という回答は23%。「当面は避難を続ける」という回答が35%と一番多いものとなりました。

また「決めていない」という回答が24%。この選択肢はもしかすると実際には「決めることができない」という意味でお答えいただいた方が多いような気がしています。交流会や相談対応で避難者の方からお話をお聞きする経験からなのですが、次回は選択肢の表記を修正すべきと感じているところです。

首都圏避難者が抱く「情けない」という感情

「情けない」・・・交流会でお話をお聴きするときに、相談を受けるときに、被災者の方からよくお聞きする言葉です。やり場のない怒り、悲しみ、虚無感、あきらめの感情が込められた言葉としていつも受け止めています。

さいたま市で暮らす私(筆者)にとって、日々の慌ただしい暮らしの中で、東日本大震災の記憶が少しずつ薄れていくように思えます。今まで経験した事のない激しい揺れに大きな恐怖を感じました。

帰宅困難・・・計画的停電・・・。

そして繰り返す余震が発生するたびに、あの時の恐怖が何度も蘇り、数日間、常に地震で揺れているような感覚。

あの時の恐怖、あの時に感じたこと、あの時に思った事・・・
首都圏都市部で生活する私にとって、あの時のことが今では遠い過去のように記憶が薄れて行っています。

しかし、避難生活中の皆さんが異口同音におっしゃるのは「あの日から時計がとまったまま」ということです。それほどまでの体験をなさっているのです。

2016年度の首都圏避難者状況調査では、「あなた自身の事故発生当初1週間の原発事故体験について」お尋ねさせていただきました。

複数に〇をつけていただいたのですが、上位5つは以下の通りです。

  1. 何が起きているかわからなかった
  2. 報道で知って急に怖くなった
  3. 身の危険を感じた
  4. 必死に逃げた
  5. 放射線がとても怖かった

福島で被災し、原発事故により余儀なく避難を強いられた方にとって、その恐怖、衝撃は、想像に絶するものがあります。実際に体験した方でなければ、解らないことです。

あえて今一度、具体的に、これまで交流会、相談会でお逢いしてきた皆さんのお話の中で、福島県浪江町から避難していらっしゃった方のお話を想い出しながら、想像してみたいと思います。

巨大地震の発生で途方に暮れていたころ、

突然回りが避難を始め出し、警察や消防団も避難を呼びかけ始めて、県からも国からもどこへ逃げるべきか指示はなし。

町の判断で原発から30km離れた津島地区に避難所が開設。

約8,000名の町民が数日間避難。

配給された食事は、半分の大きさの冷たいおにぎりと具のない味噌汁。教室の中でダンボールを敷いて、寒さと不安で眠れない夜。

数日で自宅へ帰れると思っていた3月16日、

この地区の放射線量は毎時60マイクロシーベルトである事が判明。

被ばくの恐怖を抱きながら遠くへ遠くへ・・・

避難所を転々とするなかで、東京電力福島第一原子力発電所の状況が深刻であることを刻々と伝えるテレビのニュース・・・

放射線量が低く、生命の危機から逃れられた首都圏での避難所生活。自宅へそして故郷へ長きにわたって帰れないかもしれないという、不安。

国が、避難先の自治体が、用意してくれた住居は古いアパートの4階。二間しか無いアパートでは長男家族とは一緒に住むことはできず、

浪江では一緒に住んでいた長男は仕事で福島に戻ることに。

エレベーターの無いアパートでの高齢者の二人暮らし。

家業も失い、いまさら避難先でできる仕事もなし。

故郷では庭いじりをしたり、野菜を作ったりしていたのに、外出するのは買い物の時だけ。

長男と一緒にお盆の暑い盛りに防護服に身を包み一時帰宅。

庭一面に延びたセイタカアワダチソウをかき分けながら家の中へ。

地震で散乱した家の中に無数のネズミの糞。天井一面のカビ・・・

渡されたビニール袋に限られた想い出の品を詰める、限られた時間。

たくさんの想い出を置き去りにしての帰路。

家、土地、仕事、故郷、友達、生きがい・・・何もかも失った自分に届いた損害賠償請求書。

分厚い書類は難しい文章ばかり。要求される領収書。

自動車事故の時に支払われる最低金額の自賠責保険と同じ水準で定められた月額10万円という慰謝料。

やっとの思いで書いた請求書も、あれはダメ、これはダメと言われてしまい。

同じ町でありながら、3つの区域に線引きされて、生じた賠償格差。

避難指示が解除されて、戻ったとしても暮らしを立て直せるのかという不安。

都会に残ったからといって暮らしていけるかという不安。

これから先のことを選択しなければならない不安。

原発事故発生以来、避難を強いられた皆さんは、何度「情けない」という言葉を口に出した事でしょう。あるいは心の中で唱えた事でしょう。

「情けない」それは自分自身に向けられてしまっている言葉です。

その言葉を発するたびに、心の中に浮かぶたびに、自己の尊厳、自尊心が傷つけられるように思えてしまうのです。

この「情けない」という感情は、過去のものだけでなく、今でも継続しており、この先の見通しもつかないことに対しても抱かれるものです。

2011年、福島からたくさんの方が避難していらした年、私たちSSNが行った相談会、電話相談を振り返ってみると、浪江町から避難していらっしゃった方々の多くが、怒りの感情を露わにしていらっしゃった事が思い出されます。

東京電力への怒り、国への怒り、行き場のない怒り。。。

国がSPEEDIのデータを公表しなかった事、重大情報が伝わらなかった事で高線量の地域に避難させられることになったこと。

毎時60マイクロシーベルトの危険な場所に居ながら何も知らずにいたこと。

小さな子供を危険に晒していた事について悔み続け、誰を恨んでいいのかも判らない状況。

そのような経験をした方々の怒りが根深いのは当たり前のことです。

それほどまでの経験を強いられたのです。

あの日・・・何を見て何を考えたのか、

あれから・・・どこをどう歩いてここまでたどりついたのか。

忘れちゃいけないと思い、思い出し記憶しておくくせがつきました。

だからか今でも思い出しては泣いています。

こんなに悔しくて悲しい思いを死ぬまで持ち続けるんですね。

あの日に戻りたい。1日でもいいから。

 (浪江町から埼玉県に避難中の女性)

そして、浪江町は帰還困難区域を除く町の避難指示を3月31日に解除する政府案を容認することとなり、解除対象は、避難指示解除準備区域7469人、居住制限区域7858人の計1万5327人(2016年1月末現在)で、これまでの避難区域で最多となります。継続して戻ることはできない帰還困難区域の住民は3137人となっています。

さて、避難者状況調査にご協力をいただき、ご返送いただいた回答用紙をひとつひとつ拝見していると、多くの被災者の皆さんにとって、あの日のことが心に大きな傷として突き刺さったままになっているようです

あの日がまた近づく。

「忘れていたけど、あったんだ」というようにマスコミが動き出す。

2月、3月は、だから心がざわめく。

普段忘れていたことがよみがえる。

間違いなくあったことだから、そして2度とあってはいけないことだから、忘れてはいけない。自分の中で風化させてはいけないと思ってはいるものの、やっぱり辛いことは消えない。

福島、原発、放射能、津波、そんな言葉を見たり聞いたりするたびに、涙ぐんでしまう。

波にさらわれたあの子はどんなに苦しかったことか。

当時6年生だったあの子の同級生に本当の笑顔は戻るのだろうか。

追いうちをかけた原発事故。嘘がまかり通った政府の発表。国が国民をだましてどうするの!?誠実さの欠けた対応が、更に私たちを傷つけていることに気づいていないのだろう。

今回いただいた調査書は、一番詳しく、答えに困ったところもあります。本音を言えばこのような調査も避けて通りたい。でも逃げ回っていたあの頃は、記録も記憶もあまりないので、明らかになった部分で自分を立て直すには必要なことかもしれない。

バラバラになったジグゾーパズルの見失った片を、まだ全部探せていない。

そんな思いから抜け出せない。

(南相馬市から千葉県に避難中の女性)

東電、国、福島県への「不満」「不信」を源泉とする怒りの感情は、長引く避難生活の中で、時間とともに「あきらめ」、「やるせなさ」という感情へ向かっているように感じられます。

原発避難者がたくさんいても皆自分の生活で精一杯なので、東京にいると特に風化を感じる。

節電節電って騒いだのは一年目だけ。

その後は、冬のイベント、イルミネーションが復活。

新しいビルがたくさん。高層マンションがたち、沢山の電気を使ってる。

沢山の便利な中にいると、前の自分を見失いそうです。

特にオリンピックが決まってから震災という言葉が急速に失われていく気がしました。

私たちにしてみたら、オリンピックのこと、ましてや一年後が見えないのです。

でも悩みを子供たちには見せられないので、一人頑張るしか・・・

よく賠償金をもらってるからいいよねって、言われる事あるけど、失ったものの方が大きいということを分かってほしい。

きっと理解してもらえないんだろうなとも思うけど・・・

(浪江町から東京都に避難中の女性)

「情け」、「想像力」の欠如による差別、いじめの問題

“情けない”。文字通り人としての「情け」に欠ける場面に出くわすことは、ただでさえ精神的苦痛を背負っている避難者にとっては、とてもとても辛いことです。

原発事故で避難を余儀なくされた方への心無いことばが投げかけられること、一部には実際に嫌がらせを受けている状況について避難者状況調査の自由記述欄で声を上げてくださっている方がいらっしゃいます。今までにも、私たち震災支援ネットワーク埼玉でも幾度となく相談を受けています。

これらの背景には、第一に、放射線に関する誤った認識があるようです。

原発事故の発生直後、全国各地で福島からの避難者を受け入れたり、募金や物資を提供するなどの支援が行われた一方で、放射能への誤った認識や過剰なまでの不安から「福島」を避ける現象がいくつもありました。

京都では、陸前高田市の松の薪が放射能の懸念があるということで五山送り火での使用が取りやめとなりました。

福岡では、福島を支援するための産地直送の販売店が、「福島からのトラックは放射能をばらまく」などと誹謗中傷され、福島の物産の販売が中止となりました。

愛知の花火大会では、「放射能で汚染された花火を上げるな」との苦情で福島県内の会社がつくった花火の打ち上げが中止となりました。

大阪では反原発運動の活動家たちにより、福島の子どもの葬式を模して、小さな棺桶を担ぎながら町中を行進する”葬式デモ”が行われています。

さらには、このようなことがマスコミで報じられることでの誤解はさらに誤った方向へ向かってしまうこともあるようで、ごく一部には、福島から避難してきたというだけで、放射線に汚染されているとまで思われてしまったり、放射線が人から人へうつるという科学的根拠に欠けるデマを真に受けている人もいるようです。

一方で、被災者が受け取っている賠償金に対する誤解/偏見、さらには妬みの感情もあるようです。避難住居を無償で提供され、仕事をしなくても暮らしていける、というように映るのでしょうか。そのように思う人には、原発事故で避難せざるをえなかった人々が抱える苦難/苦痛を想像することができないようです。そうです、偏見、差別、いじめの背景には「想像力の欠如」ということも大きな要因となるように思えます。

着の身着のままふるさとを追われて、帰れる目途も立たずに慣れない場所での避難生活を余儀なくされ、仕事も自宅も自然も地域も人間関係も、日常の暮らしを根こそぎ奪われ、生活エリアは放射線に汚染され、戻って生活することができない状況にあるわけです。失ったものは想像以上に大きいものです。とてもお金などで補えるものではありません。

実際、補償される額はとても納得できる額ではありません。交通事故の場合、損害賠償の事例が無数にあり、基準のようなものがあります。最低ランクの「自賠責保険基準」から、「任意保険基準」、「弁護士基準」、最高ランクの「裁判基準」という補償額の目安となるものです。原発の損害賠償の精神的慰謝料の場合、交通事故の最低限の強制保険である自賠責の額が基準となっており、当事者にとっては、到底納得できる金額ではないというのが実情なのです。

昨今、メディアで大きく取り上げられている子どもたちによる”原発避難いじめ”は、こうした大人の社会での心ない誤解や偏見を、子どもたちが真に受けてしまっていることが大きな原因となっているといわれています。強制的に避難させられた人たちが、どのような苦しみを味わってきたのか、どのように辛い思いでいるのか、大人たちが理解することが重要であると思います。調査用紙への回答、電話/面談/交流会での相談などを通じて、皆さんが今どのような問題を抱えているのか、どのような思いをいだいているのかを取りまとめさせていただいて、事実をより多くの方に理解をしていただくことも、私たち震災支援ネットワーク埼玉の責務の一つであると思っています。

ただし昨今表面化しているいじめの問題は、すでに避難当初から起きていることで、実際、私たちも数多くの相談に対応し、問題は当事者同士で解決してきました。マスコミでの報道に過敏に反応し過ぎることで、すでに学校に地域になじんでいるお子さんに、二次的な被害が及はないように十分に配慮していく必要があるものと私たち震災支援ネットワークは考えています。

第5回 避難者状況調査報告(1):首都圏避難者のストレスレベルが反転上昇

2016年度避難者状況調査の概要

私たち震災支援ネットワーク埼玉は、2011年3月、さいたまスーパーアリーナが一時避難所となり、東日本大震災および東京電力福島第一発電所の原発事故による避難者を受け入れた際に駆け付けたボランティアの中で、弁護士、司法書士、医師、看護師、臨床心理士、社会福祉士、ITスペシャリストなど、各方面の専門家により相談を担当したグループで、以来、被災者支援活動を継続して行っています。

2012年春に福島県から埼玉県へ避難中の世帯を対象として実施した「避難者状況調査」以来、毎年形を変えながら実施し、第5回目となった2016年度避難者状況調査は、以下の自治体にご協力をいただいて実施させていただきました。

  • 双葉町(関東1都6県):875世帯
  • 大熊町(関東1都6県):1,000世帯
  • 富岡町(関東1都6県):1,500世帯
  • いわき市(関東1都6県): 700世帯
  • 南相馬市(全国):6,200世帯
    合計:10,275世帯

皆様には多数の設問でご負担をおかけいたしましたことをお詫びさせていただきますと共に、ご協力をいただきました方には心より御礼申し上げます。

アンケートの構成

本調査の目的は、福島県外で避難生活を送る皆さんの現状の課題、問題点を集計、分析し、分析結果を、行政やNPOなどと共有し、今後の支援活動の指針としていくことにあります。

第一部のこころの状態に関する設問では、ストレス状況について簡易に自己採点できるようにした上で、こころに大きな負担がかかる場合に、その要因は何なのか?という事を第二部の設問により多角的に俯瞰できるような構成としました。

さらに、新たな試みとしてご希望に応じて各分野の専門家により相談対応を行い、また、状況/ご希望に応じて専門の支援員を派遣させていただいております。

電話・訪問により、アンケートではお聴きできなかったことも含めて詳細にお話しいただくことで気持ちの整理をしていただき、さらには抱える悩み、問題を解決できそうな専門機関/専門家をご紹介することで、解決に向けて、ご一緒に一歩を踏み出すことができればと願っています。当然ですが、個人情報は厳重に管理し、秘密は厳守いたしております。

集計結果については、早稲田大学 人間科学学術院およびSSN「避難者状況調査委員会」において分析/解析を継続的に行っておりますが、まずは今回の調査結果から見えてきたことをまとめてさせていただきました。

広域避難者が抱える深い心の傷

私たち震災支援ネットワーク埼玉は、早稲田大学 災害復興医療人類学研究所と共同で、2012年3月に埼玉県への避難者を対象にアンケート調査を実施させていただいて以来、避難生活中の皆さんのストレス状況について毎回集計させていただいています。設問としては、国際的に標準化された質問紙である「改訂出来事インパクト尺度」(略称:IES-R)を用いています。

さて、最近ではマスコミでもしばしば取り上げられるようになったPTSD=心的外傷後ストレス障害ですが、天災、事故、戦争、犯罪、虐待など、命の安全が脅かされるような出来事によって強い精神的衝撃を受けることが原因となり、精神的不安定、不安、不眠などの過覚醒症状やトラウマの原因となった障害の回避傾向、フラッシュバックなどが基本的な症状とされています。このIES-Rのスコアが25点以上となるとPTSDの可能性があるストレスレベルにある疑いがあるとされています。

1995年に発生した阪神淡路大震災が発生した3年8カ月後の調査では約40%の方がPTSDの可能性があるストレスレベルにありました。2004年に発生した新潟県中越地震では3カ月後及び13カ月後の調査では約21%という数値でした。

一方、2012年3月の調査(埼玉)では過去の震災と比較してはるかに高い67.3%という3人に2人がPTSDの可能性があるストレスレベルにありました。

2年後は埼玉県に加え東京都内に避難中の方に調査範囲を広げたのですが、59.6%と依然と高い数値でした。4年後は52.5%、5年が経過した2016年には32.9%とおよそ3人に1人と低下する傾向にありました

2016年春にストレスレベルが低下したのは、原子力賠償紛争審査会の中間指針 第四次追補により、移住に伴い新たな住居を取得するための損害賠償が示され生活再建の柱となる家屋の確保の見通しがついた方が多いことが大きな要因の一つであるように思われます。実際、調査結果では、すでに25%の方が福島県外に移住し、新たな人生の再スタートを切り始めていらっしゃるようです。

ところが、6年が経過しようとしている2017年には51.9%と反転してしまっている状態となっています。

まずは、ストレスを高める要因となったものは何なのかを探ってみたいと思います。

ストレスの原因を探る

「PTSDの可能性」があるほどの強いストレスの要因となるものを調査用紙の中でさまざまな角度からお尋ねさせていただきました。回答をつぶさに分類してみると1、心理的要因、2、社会的要因、3、経済的要因という3つが浮かび上がってきます。

1、心理的要因

  • 原発事故発生当初1週間に「死の恐怖」を感じたこと
  • 「ふるさとを喪失」したつらさ、
  • 地域の人との関わりの中で避難者であることによって「いやな経験」をしたこと

2、社会的要因

  • 悩み・気がかり・困ったことを「相談」できる相手が近くにいない
  • 何でもきさくに打ち解ける仲間、コミュニティが失われてしまった
  • 長期化する避難生活の中で、家族との関係がうまくいかなくなってしまった

3、経済的要因

  • これからどのようにして生計を立てていくかという心配
  • 生活の基盤となる家をどうするか
  • 避難先での仕事の問題

さらには、自由記述欄にお書きいただいている内容を集計してみると、これから先の見通しができないことによる「不安」、国や東京電力などに対する「不信」、さまざまな政策、除染作業などへの「不満」などが複合的に絡み合ってストレスを高めているものと思われます。

6年が経過してストレスレベルがなぜ反転?

2017年3月末をもって自主避難世帯に対する住宅の無償供与が終了となります。東京電力は1度だけ、ごくわずかな賠償金しか支払をしていません。
多くの自主避難者の方々はお子様への放射線によるリスクを回避するために福島を離れています。

そんな自主避難者の方に、「原発の近くでなかったら、みんな平気で住んでいるんだし、福島に戻れるんじゃない?」というようなことを安易に口に出す人がいます。

しかし、小さかったお子さんも6年が経過し学校に通うようになると、簡単には動くことができません。中には避難元の親類から「なぜ逃げたの? いつまで避難しているの?みんなこっちで普通に暮らしているのに」などと言われてしまい、戻るに戻れない方もいらっしゃいます。

お子さんが首都圏での暮らし、学校生活に慣れて、お友達と仲良く勉強もできている場合の方がむしろ多いかもしれません。しかしマスコミで”いじめの問題”が報じられることで、周囲が気を遣うことで何とも耐えがたい空気を感じているお母さまもいます。

父親だけが避難元で仕事を継続する場合には二重生活。避難元の家にローンが残っている場合、ただでさえ家計は苦しい所に、住宅の無償供与が終了してしまうことで自主避難中の皆さんの暮らしはますます困窮していく恐れがあります。

新たな自主避難

2014年4月には田村市都路地区東部、2014年10月そして2016年6月には川内村東部の避難指示が解除されました。続いて2015年9月5日楢葉町の避難指示が解除され、2016年6月には葛尾村、同7月には南相馬市の帰還困難区域を除く区域の避難指示が解除となりました。

避難指示解除の1年後には、東京電力による精神的慰謝料の支払いが停止となり、これらの区域から避難生活を続けている方は“新たな自主避難者”ということになるわけです。ちなみにこれらの解除された地域への住民の帰還率は2017年1月末現在では約13%にとどまっている状況にあります。

(画像提供:福島民友社)

そして2017年の春には1万5千人におよぶ新たな自主避難者が生まれることになります。2017年3月31日には浪江町、飯館村、川俣町山木屋、4月1日には富岡町の居住制限区域、避難指示解除準備区域が避難指示解除となります

解除対象は、避難指示解除準備区域7469人、居住制限区域7858人の計1万5327人(1月末現在)が”新たな自主避難者”となるわけです。避難指示が解除となることで、1年後には東京電力による精神的慰謝料の支払いが終了し、避難住宅の無償供与も終了となる見込みです。

首都圏避難者はますます追い詰められる状況にあります。(続く)

「“原発避難いじめ” 大人も半数近くに」NHKニュースから

2017年3月9日、「“原発避難いじめ” 大人も半数近くに」というニュースがNHKのニュースで報じられています。

震災支援ネットワーク埼玉では早稲田大学 人間科学学術院と共同で2012年以来、原発事故による福島県からの避難者状況調査を、避難元自治体のご協力をいただき実施させていただいておりますが、2017年2月に実施した調査では、NHK 社会部と共同で「原発避難いじめ」に関する特別版となる調査用紙を同封させていただきました。

この調査では、いじめを受けていた子どもたちと同じく、大人たちも「賠償金」などを理由として避難先で嫌がらせや精神的苦痛を受けていて、その数は全体の半数近くに上ることが明らかになっています。

3月8日 のNHK総合「クローズアップ現代+ 震災6年 埋もれていた子どもたちの声 ~“原発避難いじめ”の実態」の番組放映までに届き集計することができた741件のうち、「子どもがいじめられた」と回答いただいたのは54件に上りました。

さらに、本調査ではお子さんだけでなく、大人の方も対象とした設問にご回答いただいているのですが、全体の半数近い334人が、大人も避難先などで嫌がらせや精神的苦痛を感じたことがあるとのご回答をいただいています。この内容については、賠償金に関するものが最も多く274件、避難者であることを理由としたものが197件、さらに、放射能を理由としたものが127件となっています。(複数回答)

NHK 3月9日の朝7時のニュースでは、「避難者であることを理由に団地の行事に参加させてもらえなかった」や「自動車に傷をつけられた」、さらに、「転職先で賠償金をもらっているから資格や給与をあげる必要はないと言われた」など具体的な嫌がらせや偏見の内容を報じています。

昨今大きな話題となっている“原発避難いじめ”の実態として、子供だけの問題ではなく、大人の間に差別や偏見が広がっていることが明らかとなったものと思われます。

当団体の副代表で、早稲田大学人間科学学術院の辻内琢也教授は「賠償金が生活環境やふるさとを奪われた人たちに対する償いであるということが忘れ去られてしまっている。多くの人たちが原発事故の被害が今でも続いていることを知ることが大切だ」とコメントしています。

原発事故災害からの5年を調査実績から振り返る:構造的暴力による社会的虐待

当団体と事業協力をしている早稲田大学災害復興医療人類学研究所所長 辻内琢也医師のレポートです。

「原発事故災害からの5年を調査実績から振り返る:構造的暴力による社会的虐待」

タイトルをクリックするとPDF表示されます。

2013.11.29 埼玉県杉戸町への災害復興住宅建設に向けて 杉戸町議会報告

IMG_2098

埼玉県杉戸町議会 12月定例会において、本日(2013年11月29日)、「災害公営住宅建設に向けて」ということで、一般質問が行われる事を、福島県富岡町から避難中の被災者団体「杉戸元気会」の代表の方よりお知らせをいただき、議会の傍聴に行ってまいりました。

以下の通り質疑の概要についてご報告いたします。

IMG_2094

 

*本写真は議会事務局にご許可をいただき休憩中に撮影させていただきました。

「災害公営住宅建設に向けて」という一般質問を行ったのは、須田恒男議員。

4つの一般質問のうちの一つとして、1時間の持ち時間の半分以上を費やしての質疑が行われました。

全議員及び杉戸町当局全員には、9月に行われた福島県富岡町議会における遠藤一善議員による一般質問「杉戸町に災害公営住宅の整備を」の質問及び答弁の概要が記された、とみおか議会だよりのコピーなどの資料が配布されていました。

須田恒男議員による質問の内容は次の通りです。

東日本大震災から2年9か月を迎えようとしている。未だ、原発事故による災害によって故郷に帰ることが不可能な方が多くいる。我が杉戸町にも、友好都市の富岡町の避難者が生活を営んでいる。

これまで国は、除染実施によって避難者には故郷に帰っていただく方針であったが、11月11日の報道では、「全員帰還」の原則から帰還困難区域及び区域外において、自・公両党は移住支援を進めるとの提言を首相に提出した。

そこで、杉戸町及び富岡町の9月議会での議論をふまえ、以下質問する。

(1) 報道をどのように受け止めたのか伺う。

◆古谷町長の答弁

自・公両党による提言は、年間被曝放射線量が50ミリシーベルト超の帰還困難地域については、今後何年かは帰還困難であることを明確に示し、新しい生活のための判断材料を、国として提示する責任がある事を指摘しており、除染やインフラ整備を優先することで全員帰還という、従来の政府方針の転換を促したものと認識している。

この報道を受けて私(の個人的な見解)としては、高線量地域で帰りたいのに帰れない避難者の方や低線量地区でも帰れない方々が、引き続き長期避難を余儀なくされている中で、多くの不安や心配事を抱えている事に対し、改めて迅速かつ明確な対応を示すべきであると考えている。

 

(2) 富岡町議会において富岡町長は、この報道がある前から杉戸町への災害公営住宅整備については 杉戸町でも協力したいとの意向がある旨の発言をしているが、発言の協議はされていたのか伺う。

◆古谷町長の答弁

杉戸町では6月に町内に避難中の富岡町民の方から、杉戸町内に災害公営住宅の整備に向けて、富岡町や福島県に働きかけていただくよう要望を受けた経緯がある。

その旨、当町の担当者を通じて富岡町の担当者に情報提供を行った。

その際、当杉戸町としては、富岡町から正式な協議を受けた段階で、できる範囲で協力を行う旨お伝えした。

その後については、具体的な協議はまだ行われていないという現状にある。

 

(3) 9月議会において古谷町長は、仮の町構想は、福島県内での取り組みであることから、この縛りが取れた際には考える旨の発言があった。 今後の考えを明らかにされたい。

◆古谷町長の答弁

災害公営住宅の整備については、避難者を対象とした住民意向調査の結果に基づいて、避難元自治体である富岡町が国および県と協議を進め、福島県内という縛りが取れた上で富岡町から正式に要望が来た段階で、当町としては富岡町の意向を踏まえ、できる範囲で協力したいと考えている。

町長の答弁を受けて、引き続き、須田議員より質問が行われ、事務担当部局である住民参加推進課長および町長による答弁が行われました。

最後に、須田恒男議員による質問は、次のような言葉で締めくくられました。

「今日は多くの避難をされている富岡町民の方を中心とする傍聴者の方がいらしています。ここで議論したものを、ぜひとも実行に移していただくよう(お願いするとともに)、この杉戸町に住みたいという避難されている方々がいる限りにおいては、ぜひとも、災害公営住宅を造っていただきたいという気持ちでございますので、今後とも、町長を始め担当部課においては、情報を共有しながら従事するように、私も力を添えていきたいと思いますのでお願いを致します。」